漫画 | 孤独が好きな寂しがりやBlog

漫画

何気に漫画を読まなくなった。それも年を追うごとに「漫画の読書量」は減ってきている。2年程前、自然と週刊モーニングの定期購読を辞めるのと同時期に週刊ヤングマガジン・週刊ヤングジャンプなど立ち読みもしなくなった。

単行本も同じで、今では、冬目景氏の「イエスタデイをうたって」と、かわぐちかいじ氏の「ZIPANG」以外購読していない。もっとも「イエスタデイをうたって」は5年間で4巻しか発売されていないけれど。


その反面、夕刊紙や週刊誌を買って「その場限り」に読む活字量は増えた。漫画から活字にシフトした、と言えばその通りなのかもしれない。事実、読書量(立ち読みを含む)はそれほど増えた実感はないし、金銭的な負担はそれほど変わっていないと思う。



ここ数週間前だったと記憶しているが、どこかで「週刊誌などの連載漫画は1本読み飛ばすと内容が分からなくなるから、単行本を買った方が『都合がいい』」という記事を読んだ。

それは真実だろう。

先ほど上げた「ZIPANG」も1本読み飛ばすと多少流れがつかめないし、福本伸行氏の「カイジ」はその傾向が得に顕著でシリーズまとめて読まないと全体的な構成が掴みにくい。

自分の場合「カイジ」を単行本すら読んでいないのは、「途中までしかない」シリーズを読んでもその味わいを消化しきれないためだ。現在では麻雀をやっているようだが、その辺はよく知らない。冊数は多いので終わっているのかもしれないが。



最近、漫画喫茶で「民俗学者 八雲樹」という探偵モノの漫画を読んだ。

タイトルにある通り「民俗学」を主軸にしており、自分の趣味の「歴史」に通じている所があるので、何気に(漫画喫茶で)フォロー対象にしているのだが、最近では50ページ前後で1つの物語(推理内容)を終わらせている。昔は単行本1冊分(100ページ以上)に近い分量で物語を展開していたのだが。


漫画には「人気投票アンケート葉書」があり、それで人気があるかどうか、商業的に上手くいっているのか、というバロメータにしているという。おそらく、単行本1冊分相当(8週~10週連載分)にすると「人気投票の具合が思わしくない」のだろう。だから2、3週程度の連載で完結させるようにしているのだろうが、ただでさえ「推理部分」が甘いのにページ数を制限したためにその部分―――物語内容も含めて―――が非常に馬鹿馬鹿しい内容になっている(もっとも推理部分が優れた漫画なぞ存在しないが)


個人的な感想を言えば「民俗学者 八雲樹」については漫画の部分はどうでもいい。単行本についている「(テーマとなった)民俗学の解説」こそ「本当に読みたい部分」なので漫画の内容はさほど問題にはしない。

問題にはしないが―――やはり物語の良さを「期待したい」という心情があるのは如何ともしがたい。それを考えると、「民俗学者 八雲樹」に関して言えば、人気投票に関わらず腰を落ち着けて分量を多くした「濃い作り」をして欲しい、とは思う。

今は身の丈に合っていないが、いずれ身の丈に合った作り―――「横溝正史」を彷彿とさせるサブタイトルを使っている―――になるのかもしれないのだから。



最近の漫画をざっと(単行本)で読んでみたが、どれもこれも同じような作りのような気がする。「暴れな漫画が存在しない」と言えばわかりやすいかもしれない。今ある人気を確保しようと「冒険しようとしない」というのが原因なのだろうか。


だが、基本的な構造は自分の子供の頃とあまり変わっていないような気がする。かのドラゴンボールは自分の小学生の頃、スラムダンクは中学生の頃に連載が開始されたと記憶しているが、そういった「キラータイトル」を除けば、大して「(偏ってでも)オレはこの漫画が好きだ!」という漫画は無かったように思う。



漫画には読者から見れば読みやすいメディアではある。注ぎ込む労働力は相当な量ではあるが。

しかし、自分から見たら、だが、漫画では満足できない。何に満足できないのか、と言われれば少し返答に困るのだが「読みごたえ」という一点において、漫画と活字に差があると思う。


漫画には、確かに「さらっ」と読める分、読んだ気がしない―――「質」ではなく「量」的に―――というのがある。特に連載漫画ではそうだ。その続きはどうなんだ、という期待感が悪い方向に進んでいる、というのもあるかもしれない。


だが、活字には何度も読める、という特性がある。正確には「1度読んだだけでは正確に分からない」という「噛めば噛むほど…」という味わいがある。それは連載小説であったとしても変わらない。


だが、漫画にはそれが欠けている。何度も読み返すような「メディア」ではない。




最近、と言うわけではないが、漫画喫茶なるものがある。

そこに行けば、単行本を買わずとも漫画が読める。

おそらくは、そういう手軽さが、自分が単行本を買わなくなった事情がある。何故なら、そこには連載中を含めた漫画が並んでおり、わざわざ漫画を買って読む必要が無い。少なくとも単行本は。


自分の事(嗜好)を考えれば、漫画喫茶が無いと買っていたであろうタイトルは幾つか思い浮かぶ。


先ほど上げた「民俗学者 八雲樹」は民俗学があるので「資料の一つ」として買っているだろう。

「野崎修平」シリーズも人間を描いている、という事から買っていたと考えられる。

独特の雰囲気を持った福本伸行氏の「カイジ」「アカギ」「天」なども買っていただろう。

登場人物(味方)が死ぬ、という事で「ロトの紋章」も揃えていたかもしれない。

競馬ファンという視点からサラブレッドを描いた「優駿の門」も買っていたかもしれない。


これらを全て揃えるとしたらどれくらいの出費があるだろうか。

だが、漫画というものは先ほども書いた通り、活字と違って「1度読めばいいや」と済ませられる。何故なら、何度も読み返すほどの濃密さを持ったタイトルがあまりにも少なすぎるからだ。



1年ほど前だったか、漫画家が漫画喫茶に対して「お前らのせいで漫画買う人間が減ってしまった。だからライセンス料を支払え」という訴えが通ったと記憶している。

世間はともかく、少なくとも自分から見たら、それは正しい。


だが、それはあくまで自分からみたら、であって、「じゃぁ買ってまで読むタイトルって多いのか」と言われると少し疑問に思う。

自分から見たら漫画喫茶は「漫画専用の貸し倉庫」みたいなものであって、そもそも「1度読めば充分」というのが率直な感想だ。それほど「単行本を買いたい」「雑誌を買って読みたい」と思えるほどのタイトル数はそれほど、無い。



人によって異なるだろうが、漫画と言うのは「より詳しく知りたい」といった知識欲を優先する人間からはあまり歓迎されるメディアではない。何故なら量的に多くなりすぎる傾向にある。


「日本の歴史」という全20巻の漫画がある。A5版サイズでハードカバーの漫画だが、それだけの内容であれば、文庫本3冊で概ねフォローできる(そういう文庫本があったと記憶しているが、タイトルまでは覚えていない)

本棚に並べる(買って自宅に置く)と、その物理的な量差はかなり大きい。



究極的に言えば、漫画にせよ活字にせよ、買ってまで読みたい、というのは「何度も読みたい」という所に落ち着く。

漫画喫茶という存在がそれを浮き彫りにしているが、漫画というのは娯楽的な要素が強く、「気軽に読める」のがメディア的なセールスポイントだろう。

活字は漫画ほど「読みやすい」メディアではないが、何度も読み返して初めて「読み応え」という快感に行き着く。




漫画は読みやすい反面、「雑誌に連載」されないとビジネスとして存在し得ない。

それほどの労働力が必要だし、コスト的に単行本だけの売り上げでは賄いきれない。特に、雑誌以外にユーザに露出する機会が無いのが大きい。


だが、連続して掲載される反面、ユーザから見たら「1本読み飛ばすと内容がわからなくなる」という現象を生み出す。

そして、そのフォローを果たす、というのをセールスポイントの一つに掲げた漫画喫茶の存在。


これこそが、自分が漫画を「漫画喫茶以外で読まなくさせた」主因だろう。

漫画自体を読まなくなった、というわけでもないのだし。



他にも主因があるかもしれない。

仕事柄、パソコンを使うことが多いが、基本的に文字だけの世界だ。ニュースなどもTVではなくニュースサイトで見るようになった。

天気予報も、スポーツニュースも。



漫画を読む機会が減った、正確には漫画は漫画喫茶で読むという「分業」になってしまったのは、「活字慣れ」してしまったのが原因なのかもしれない。