武田勝頼―――深き深淵【ザレキネタ】 | 孤独が好きな寂しがりやBlog

武田勝頼―――深き深淵【ザレキネタ】

【補足5/4 5:00】

タイトルを変更しました

【補足終わり】


偉大な父、武田晴信(武田信玄)の遺産を「食い潰した」と言えるであろう武田勝頼ですが、評価するにあたってこれほど困る人はいません。普通に結果だけを見たら「甲斐王国」を滅亡させた「無能なトップ」と言えるんでしょうが、個々の戦闘といいますか、武田信玄存命時や長篠の合戦以前を見ると「優秀な武将」ではあったんですよ。


今までは単に「織田信長という天才を相手にしたのが運の尽き」という見方をしてたのですが、最近ちょっと見方を変えたのでザレキネタとして記事にします。



武田勝頼の初陣は数え年18歳ですので、今で言うと満17歳、高校3年に相当する具合ですか。そんなに遅い方ではありませんが、決して早い初陣というわけではありません。

ちなみに、武田勝頼は初陣できっちり功績を果たしています。資料が少なくてはっきりしたところは分からないのですが、上州箕輪という所で斥候(騎乗の将校クラス)と取っ組み合いして首級をあげてます。


戦場ではなく、そういう斥候との「一騎打ち」で首級をあげた、というのはかなり稀なほうですね。

普通は戦場に出てきて(御守り役付)馬を駆けて槍で相手を突き刺す、といった普通の戦闘で首級をあげるんですが、武田勝頼のように戦場外での「一騎打ち」というのは殆ど…というかまるで聞いた事がありません。


他にも、個人の武勇であげた功績というのは多いです。敵5騎に味方1騎のみを引き連れて突っ込んだあげく1人を切り落としたり、殿軍(しんがり@一番後ろで敵の追撃を払いのける最も「危険な」役回り)で敵を払いのけたり、とか、ですね。

メジャーどころの武将の中では相当強い部類に入ります。というか、武田勝頼以上の武将はほとんど聞かないですね。前田利益(前田慶次の方が通りがいいかな?)や本田忠勝とかいったマイナー系(主もち、という意味)ならいくらでもいますが。



軍略といいましょうか、兵の運用、という意味でもなかなかのものです。高天神城の攻略もそうですし、

織田信長との境、東美濃方面、徳川家康のと境、三河・遠江方面への武威侵攻も効果をあげています。

他にも、武田信玄存命時ですが、上杉謙信が1万5千の兵を率いて信濃に侵攻した際、わずか兵800を率いて対抗しようというクソ度胸なんていうレベルじゃない用兵をしたりしてます(この時は上杉謙信が撤兵)



政略でも必ずしも失敗といいますか、間違った布石は打っていません。上杉謙信死後は上杉景勝と不可侵条約(近代的な「条約」では無いですが)を締結したり、関東に盤居する北条氏と同盟を結び、軍事侵攻は「織田・徳川に絞る」という明確に指針を打ち出しています。その指針通りに軍略を進めて、先ほど書いた具合に東美濃・三河・遠江に侵攻して少なからず成功しています。

対上杉・北条外交に関しては、後に天目山で亡くなるまでトラブルは起こしていません。



これらを総合すると、政略では上杉・北条と約して味方(同盟者の意味)に、織田・徳川に対抗する、というアクション・アジェンダ(行動指針)を定め、軍略でも攻城戦・示威行為に成功させて実績を作り、個人の武勇も並外れた武将であり、これほどの能力を兼ね備えた武将は本当にいない、と言っていいでしょう。




それらを踏まえたうえで、今回の記事の趣旨である「何故武田家(武田勝頼)は天目山で滅んだのか?」という事を考えます。


長篠の合戦があったのは天正3年(西暦1575年)です。ここで武田軍は大敗します。

その後、武田勝頼が天目山で果てたのは天正9年(1581年)。

この間7年間「武田家は保った」んですが、意外に時間がかかっていますね。一般的なイメージでは、長篠の合戦→武田家滅亡という流れですが、その間には7年間という歳月があります。


この歳月には一体どういう意味があるのでしょうか。

敵を味方にする、いわゆる「調略」ですが、その期間に充てた、というのは確かに正解でしょう。

事実、武田家は長篠の合戦で馬場信房・内藤昌豊ら武田信玄以来の有名かつ忠義に篤い武将を失い、残った武将は殆ど織田家に付き武田家に逆らうようになっています。


長篠の合戦以後、武田勝頼の個人的な武勇や軍略の上手さが見えなくなっています。まるで別人のように。

確かに長篠の合戦で大敗したのは事実ですが、そこで失ったのは有名な武将と1000余の兵と、武田勝頼の武威。まだまだ挽回可能な範囲です。これで滅びるほど、武田家は弱くは無い。


しかし、本当にこれが同一人物なのか、と思えるほど武田勝頼は後手後手に回ってしまいます。下手すれば「実は武田勝頼は長篠の合戦で死んでたんじゃないのか?」と思えるくらいに。


また不幸な事に、長篠の合戦で戦死したのは武田信玄以来のいわゆる「宿老」といわれる重臣が主体でした。ところが長篠の合戦で「生き残った」のは武田一族(穴山信君や小山田信茂らは後に織田家に離反した武田家の「血縁」)なんですよ。



武田家といえば「人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」というキャッチコピーに見られるほど家臣団の強固さがありました。

しかし武田信玄の時と武田勝頼の時は実は構成が異なっています。

武田勝頼は父の行った「合議制」という体制を維持しながら、執政部のような部署を作っています。

ちょっと違いますが、今で言う「役員会議」と社長直属の「調査室」といった具合でしょうか。


そういう2大巨頭というか派閥のような代物が武田家にあったんですね。

その派閥のようなものが一体どのような経過をたどり、どのような結果を生み出すか。

普通に考えたら、読者の方々が想像する経過・結果を辿るでしょう。




先ほど、自分は武田勝頼を「政略(外交)」「軍略」「武勇」の点で評価しました。ところが、一つ重要な点が足りません。

「内治」という要素です。

自領の治安維持や行政の点では目立った功績はありませんが、特に非難めいた話も出てきません。ですが、ここで言う「内治」というのはそういった「庶民」の生活に関わる事だけでなく、「家臣団の結束」という意味も含んでいます。


長篠の合戦もそうですが、姉川の合戦、その他細々とした戦で負ける、というのはその「影響力の低下」を誘発します。

その影響力の低下が武田家の屋台骨―――家臣団の結束の強さ―――をぐらつかせます(実はこれこそが戦の本質なのですが、それは話が違いますのでここでは割愛します)。


そういった意味では、「内治」とは今の言葉で言うと「内閣支持率」に近いですね。この支持率が低くなると周りの人が離れていく図式は昔も今も同じといえます。




かてて加えて、織田家は「専業武士団」というのを採用しています。専業武士団とは、1年中動かす事が可能なのですが、戦が無い時期はただの無駄飯食らいです(個々の武力は弱いデメリットがある)。

それに対局するのが「農民兵」です。この時期の兵士はすべて農民なのですが、農民だけあって農繁期(田植えや刈り取り)の時期は帰郷させねばなりません(個々の武力、特に防衛戦にはめっぽう強い)。


この専業武士団というのは、相手にしてみれば「嫌な相手」といえます。

農繁期に攻め込まれたら、兵士(農民兵)は田植えや刈り取りができません。食っていけない、という理由から、中には戦に出てこない武士が出てきます(先ほど書いた影響力の低下もある)。


そうなると、残った「味方」で戦わなければなりませんが、そうなると残った味方に負担がかかる。戦に行くのにも無料(ただ)ではありませんし、何より生命の危険があります。

それを繰り返されると、残った味方もコスト・生命の点から「勘弁してくれ(本音)」と離脱してくる武士が出てくる、そうなると残った味方にさらに負担がかかる…。


このデフレスパイラルにも似た現象に(苦笑)、織田信長の敵はことごとく殲滅していきました。

美濃斎藤氏、北近江浅井氏、越前朝倉氏、そして甲斐武田氏。

彼らは、織田家の専業武士団の「間断なき侵攻」により、コスト超過(防衛コスト)に陥り「支持率低下」を誘発し、味方の投降調略の餌食になって滅んでいます。



特に武田氏(武田勝頼)は不幸と言えば不幸と言えます。

もともと、織田氏の目的は近畿地方(京都)であって、甲信越地方のプライオリティは低い。だからこそ武田信玄存命の時期は外交で謙った(へりくだった)態度を取り続けています(武田勝頼の嫡子、武田信勝は織田信長の義理の娘の子)。


後に織田家と武田氏は敵同士となりますが、先ほども書いた通り織田家のプライオリティは近畿地方から中国・四国方面(九州方面)にあります。

これは南蛮貿易、という経済的な理由があります。つまり「儲かる方に手を伸ばす」というのが織田家のアクション・アジェンダなんですね。なので甲信越地方には積極的に手を伸ばしていません(防衛戦のみ対応する)


つまり、武田家は織田家に対して「翻弄する側」だったのですが、長篠の合戦というファクターが「攻守入れ替え」となってしまった。

軍事的勝利、というのは先ほども書いた通り「支持率の低下」を誘発しますので、「今なら武田家の勢力を『喰える』」と

滝川一益率いる専業武士団で「間断なき侵攻」を行い「支持率の低下」を誘発し「投降調略で敵を味方に加える」という、織田家の土俵(必勝パターン)に持ち込まれてしまったのが『武田家の不幸』と言えるでしょう。




上記した事を考えれば、武田勝頼という人物は「攻めの経営」には強いが「守りの経営」に弱かった、と判断されます。

長篠の合戦以後、武田勝頼の行動が振るわなかったのも「守りの経営」という「内治」に目を向けなかった(才能が無かった、という意味ではない)のが原因でしょう。良く言われる事ですが、攻めるよりも守るのが難しいですからね。


それでも、武田家が滅んだのは長篠の合戦の7年後。

この7年間、というのは結構長いですね。穴山信君や小山田信茂(先ほども書いた通り、武田一族にあたります)が武田家に離反して「ようやく」滅んだ、というのが事実ですので、それを考えると「先代の遺した威光は相当強かった」とも言えるでしょうか。



強さ、という意味では、武田勝頼は父以上であった、と言えるかもしれません。数々の戦を見ればそれが窺えます。

ですが、武田信玄は「外交」で味方を増やした上で「勝ち易きに勝つ」のを主眼としていましたが、武田勝頼はそれをしなかった。

それでも勝ち続けた。

そこに「勝利の毒」が潜んでいるのかもしれません。

だからこそ、長篠の合戦以後、武田勝頼は翻弄されっぱなしで挽回できなかったのでしょう。




武田勝頼の人生を考えると、人間の深淵が仄見える感じがします。