ドストエフスキーのオマージュ? | 孤独が好きな寂しがりやBlog

ドストエフスキーのオマージュ?


つい最近、部屋の掃除をしてたら、本棚にあった「罪と罰」が出てきた。
その時は「頭痛くなる系カヨまだ持ってたんだ┐(´д`)┌」って思ったんだけど、まぁ普通に裏表紙の「娼婦」「ソーニャ」なんたらの文字で思い出した。
「天使のいない12月」ってドストエフスキーの「罪と罰」と「地下室の手記」が入ってたんだ。

それを考えれば、あそこまで痛いのも理解できる。
「地下室の手記」も「罪と罰」はエグいまでにニヒリズムを描いているから。
そういった意味では、「天使のいない12月」というのは、ゲームというエンタテイメントではなく、文学といえるんだろう。
だからこそ、自分は「天使のいない12月」を嫌いにはなれなかったし、中古として売らずに商品を持ち続けている。
っつかDVD-ROMドライブに半年以上入れっぱなしという事態はさすがに問題だと思うが。


「罪と罰」がメイン(?)だったら、多分プレイ中に気付いてた。
でも、どちらかというとニヒリズム(虚無主義)という立脚点から心の内を見つづける、「地下室の手記」の作風に近かったから今まで思い出せなかった。
「罪と罰」を最後に読んだのが確か数年前くらいなんだけど、「地下室の手記」は高校の時に読んだから10年前。
そりゃぁ思い出せないわ。っつか今になって思い出したのも不思議なくらいなんだけどさ。

そーいやパッケージに「贖罪」なんたら書いてあったけど、昔は「贖罪って(夜の)食材の誤植でつか(・∀・)」って一人茶化してたけど、ある意味で確かにドストエフスキーじゃなくても露西亜文学と言う時点で贖罪とゆーのは正しい(笑)。
独逸(ドイツ)とか露西亜1とかの文学って読んでてナチュラルに頭痛くなるモノばっかりだからね(笑)



そんなワケで、あらためて「天使のいない12月」のれびゅ。



で、「天使のいない12月」というゲームだけど、率直に言えば「罪と罰」20%、「地下室の手記」80%という感じ。
何と言うのかな、社会の中に存在する人間なのに、社会の秩序・常識というものを考慮せずにニヒリズム(虚無主義)に突っ走る。救われない、と言えば冗談抜きに救われないよね。
ただ、その救われなさ、というエッセンスにエロスを入れたのは巧みの業といえるかも。
まぁ男女間の「Love」というものを突き詰めたらベッドシーンになるのは当然と言えば当然なんだけどさ。


救われない、と言えば、デアボリカ@アリスソフト様も救われない展開です。
ただ救われなさにも違いがあって、デアボリカは発端と経過と結果という「他動的」な要素が絡んで救われなさ全開なんだけど、
天使のいない12月は、(ニヒリズムというのがあるから)登場人物の「論理思考」といった設定の時点で救われなさ全開からスタートする。

この差は存外大きくて、デアボリカの場合は主人公+αが行動から結果を出そうとするのだけれども、でもそれを他動的な要素が邪魔をするために救われない「結果」になっている。その描写が凄くいい出来に仕上がっているのが特徴。
だけど、天使のいない12月は個人々々の思考が救われないために、言動といった「経過」が救われない。


そういう「救われなさ」があって、主人公が栗原透子@メインヒロインに向かって
「グダグダ抜かしてると犯すぞ(意訳)」@主人公、
「犯せるものなら犯してみろ(意訳)」@栗原透子、
という会話になってしまう。
ここで(ニヒリズムはともかく)リアリティを求めるなら栗原透子はやはり処女であってはいけなかった。

「(男から)求められるセックス」を知っていても、「(自分から)求めるセックス」は知らない。
「身体が燃え上がる快楽」を感じても、「心は冷めたまま何も」感じない。
そういう点があってこそ、栗原透子の「犯したければ犯せばいいじゃない」という言葉が「より」リアルになるし、
そして栗原透子が主人公と肌を重ねていくたびに変わっていく様(ケーキ屋での会話など)や、
「どうしたら心がつながるの……?」というセリフに繋がる。

それらを考えると、栗原透子は多数の男に抱かれた・犯された過去(数年前@中学時代?)を持っており、
ゲーム内時間では主人公だけののセックスフレンドないしスレイブ(奴隷)という現在に至り、
(栗原透子が主人公を求め、それに応じて主人公も栗原透子を恋愛の対象と見るようになって)
そしてようやくハッピーエンド、という流れであるべきだった。

そうしないと、ニヒリズムに走っている主人公@童貞が「Love」を求める、というのはやはり不自然なのよ。
主人公がニヒリズムに走ってて、「お前オレの奴隷な」と栗原透子に言っている以上、普通に考えたら主人公が「一般社会でいう恋愛」を求める根拠は地平線上のどこにも存在しない。
作中にあるようにセックスしか求めていない以上は。
何かしら他動的な要素―――栗原透子が「妊娠」ではなく「出産」するなど―――があって主人公が栗原透子を恋愛の対象と見るのは可能になるけれども。
(無論、妊娠した時点で「後ろ向いてダッシュ」という展開はオレ的にアリd(・∀・))

でもまぁ、栗原透子シナリオは悪くは無いよ。
途中の展開も決して悪くないし、起承転結の最後の方にある、明日菜お姉さまの携帯メールを削除未遂シーンも「気付かなかったら『仕方ないね』」という気遣い(?)を演出してるしね。



やっぱり分からないのが、栗原透子の親友の榊しのぶシナリオ。
ニヒリズムっちゅーワケでもないし、単に痛いだけだし。(設定とはまるでかけ離れているけど)榊しのぶが真性レズで栗原透子と関係を持っている……というのだったら、栗原透子を主人公に寝取られた云々という展開でもいいような気がするけど……どうなんだろう。

「(初期設定)栗原透子×榊しのぶ」
→「主人公が栗原透子を寝取る(笑)」
→「榊しのぶブチ切れ」
→「主人公が榊しのぶとヤっちゃう」
→「栗原透子ブチ切れ、主人公を刃物でぷすりEnd」

……何で「ぷすりEnd」ってそういう発想するかなオレ_| ̄|○
普通に1対2のハーレムEndがベスト……なんだろうか?
それとも、栗原透子が逃亡(?)して2人残る、という図式なんだろうか。
どちらにせよ、扱いが難しいような気がするなぁ、榊しのぶって女の子は。



他の3人ヒロインがいるんですが、再プレイしても前と変わりませんでした。あまりタシにもなりませんが、以前に書いた内容をそのままC&Pします。


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【葉月 真帆】
このヒロインのシナリオが唯一明るい系(?)ですね。とはいえ、ダーク系なんですが、他のシナリオと比較して、ね。
主人公の友人の彼女なんですが、そのカップルの揺れ動く様はごく普通の物語として読めます。
他人様のカップルの壊れる様(?)を第三者の視点で見る、というのは新鮮味があっていいですね。
できれば、カップルの仲を上手く修復させるシナリオがあると良かったかな?

ただ…このシナリオで一言言いたい事があるんですが、

「友達の彼女を寝取るのはどうよ?」

そんな好き勝手が許されるのはランス様だけです。


【須磨寺 雪緒】
このヒロインの初登場シーンは「Piaキャロ」とダブりました(汗)
それだけで好感度Up(^^;

シナリオ的には、一番救われないシナリオですね。ヒロインも自殺願望を持っていますし。
しかも行動がそれを裏打ちしているところが救われなさ全開です。重い、という意味では、このシナリオが一番重いかな?
決して嫌いな展開ではないのですが。

それに追い討ちをかけるようにエンディングも重いです。
ですが、より未来へ羽ばたくためのワンステップなんだよ、という意味で捉えるなら、一番のハッピーエンドかもしれません。
そういった意味では、Airの「Start ”AIR”」のように後日談があると「完結できた」シナリオ、と言えますか。


【麻生 明日菜】
やさしいお姉さん、という感じのヒロインです。優しくて包容力があって、しかも巨乳(汗)
自分のシュミなお姉さんキャラクターです。

ですが、その過去はちょっとドロドロとしていますね。嫌いではない…というよりも、そういう設定は大好きです。それがわかるのはシナリオの途中ですが、これがどのように発展していくのか…プレイ中はマジで期待してました。
そして現れたお姉さんの仮面の裏、隠された狂気。
自分的ヒットな展開でした。
惜しむらくは、このシナリオこそ救われなさ全開でいって欲しかったですね。
【須磨寺 雪緒】+【麻生 明日菜】なシナリオだったら、もっとこのゲームの評価は上がっていたかもしれません。
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このゲームの主人公ですが、大多数のプレイヤーの思考とは対極にありますね。
ニヒリズムが入ってますからね。ニヒリズム同士であっても互いに同じ立場にはなりませんし、ニヒリズムでなかったら同じ思考はしませんからね。
そういった意味では、逆説的にプレイヤー(自分自身)と主人公を照らし合わせる事が可能です。

「加奈~いもうと~」ではプレイヤーと主人公を一体化させているけれども、
「天使のいない12月」ではプレイヤーと主人公を対極に置いて別々に眺めやる存在になっている。

それを表現したい……のかどうかはともかくとして、そういうのがあるからか、異様なまでに主人公の言動が逝っている。
エゴイズムの極地、というのとは少し違う。ニヒリズムの極地、と言った方が正しいですね。
何故ならば、エゴイズムは自分を中心に見るけれども、ニヒリズムは自分と社会(人間関係)を同時に眺める。
本当に「意欲作」という言葉が当てはまります。


個人的に残念だったのが、「罪と罰」が入っているのなら、「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフがシベリアに流刑されたように、「セックス」の後にある「妊娠」というのを入れて欲しかったですね。
ニヒリズムに走っている以上、何と言うのな、適正な処置を主人公が受け入れる姿が欲しかった。
何回も栗原透子とセックスしたのであれば、栗原透子が妊娠して……という図式があれば、この「天使のいない12月」の栗原透子シナリオは文学としておそらくは成立した。
えろげというポルノに文学を見出す(?)のは問題かもしれないけどね。



しかし何っつーか、よく「地下室の手記」なんぞとゆータイトルを思い出したな、オレ……。
市営の図書館で1回読んだ事あるだけだぜ。
まぁ、シナリオライターor企画者が実際にドストエフスキーのオマージュとして「天使のいない12月」を作ったかどうかは知らないけど、それを思い出した&結びつけたおいらは自画自賛してやるよ(笑)